【トップインタビュー】金田中女将・岡副徳子さん 二度と作れない伝統守りたい

2020年9月15日

金田中女将・岡副徳子さん

 

 新橋といえば、サラリーマンの夜の聖地であるが、花街としての新橋は東銀座から築地にかけたあたり。明治には、柳橋とともに「新柳二橋」と呼ばれ、伊藤博文など明治の元勲から昭和には財界人に支えられ隆盛を極める。21世紀をまたずして柳橋が廃れた後、全国的にも一目置かれる「芸の新橋」にあって料亭「金田中」は「新喜楽」とともに最後の砦といえる。今回、四代目女将、岡副徳子さんにお話をうかがうとともに、読者諸兄には料亭文化の伝統を守るためのお力添えを願う次第である。

(聞き手・山口健)

 


 

「普通の家だよ」と結婚

金田中の門構え

 ――徳子さんは旧姓中野でいらして、お父上(中野孝三郎氏)もお祖父さま(中野栄三郎氏)もキッコーマンの社長をされていましたね。なぜ料亭の女将に?とご家族は驚かれて反対されたでしょうね。

 

 主人(真吾・金田中社長)とは同級生で、そのまま学生時代からのお友達で結婚してしまったのですけれど。やっぱり両親とかはすごく心配していました。

 

 女将は料亭の顔ですので、私などが嫁いだらご迷惑をかけるからやめたほうがいいと言われまして。でも反対されると、「いや、そんなことない」って意地になるというか、若い頃って、そういうところがありますよね。

 

 主人にも、「親が心配しているけれど、そんなに大変なの?」と聞いたら、「いや、普通の家だよ」って言ったんですよ。結婚した後、「普通じゃなかったじゃない」と言ったら、「いや、僕にとってはこれが普通の家だから騙したつもりはない」とか言ってました(笑)。

 

豪快だった初代女将

 

 ――「金田中」の歴史はどのようなものなのでしょう。

 

 大正の中頃に、「田中屋」というところで仲居頭をやっていた金子とらさんという人が始めた店で、金子の「金」と「田中」をとって「金田中」としたそうです。

 

 当時は、お料理は出さない茶屋だったのですが、大正の間に五軒茶屋の一つになったので、きっとすごく豪快な女将さんだったのだと思います。

 

 ――五軒茶屋?

 

 五軒茶屋というのは新橋の代表的な5つのお茶屋さんのことです。お茶屋さんというのは貸席業で、料理は仕出しのお料理屋さんなどからとります。「新喜楽」さんは当時から料理を出される料亭でした。

 

 昭和に入って、金子とらさんには後継ぎがいなかったので、主人の祖父、岡副鐵雄が「金田中」を買うことになったのですが、名前を「金田中」のままで続けることが条件でしたので、今日までその名前で続けています。

 

 祖父は大正の終わりに関西から出てきて、銀座7丁目で「鶴の家」というカウンター割烹を始めた料理人でしたので、厨房を設え、茶屋ではなく、料亭になったということです。

 

新橋のお客が政府要人に

 

 ――明治の頃は、新橋、柳橋の新柳二橋。それと芳町に赤坂、浅草で、東京五花街と呼ばれていましたね。中でも新橋は、明治の元勲をはじめ新政府の要人たちが贔屓にしていたそうですね。

 

 幕末には江戸随一の花街は柳橋だったと聞きます。その頃に薩摩や長州などから出てきたお侍さんたちは、柳橋から門前払いをくらうのですが、たまたま新興の街だった新橋は彼らを受け入れました。明治維新により若侍達はみなさん明治政府の要人になってしまったわけじゃないですか。それで新橋は発展していったということらしいです。

 

 ――政治家、財界人、軍人、商人などがそれぞれの花街に通う時代ですね。

 

 新橋は政府の要人があすの日本を語った場所として始まります。柳橋は豪商が支えたと聞きます。また、大正には施設の関係から海軍は新橋、陸軍は赤坂を使ったそうです。

 

バブル崩壊と官民接待消滅で衰退

 

 ――柳橋はなくなりましたね。

 

 うちは、昭和になって料亭としてスタートして、高度成長期はいい時代だったようです。官と民が情報交換する場として盛んに座敷が使われました。

 

 ――ところが時代は大きく変わってしまった。

 

 私が来たときは、まだバブルの終わり頃だったので、何年間かは結構忙しかったのですけれども。一番大きかったのはバブルが終わり、続いて官民が駄目となり大きく流れは変わりました。それまでの大宴会がすっかりなくなったことです。

 

 でも、母などには昭和の時代の成功体験があるわけで、なかなか客層を変えられないんですね。重厚長大といわれる大きな会社のことが頭から離れなかったと思います。

 

婚礼や観劇セットも企画

 

新年、ひと月ほど大広間を飾る横山大観の襖絵

 

 うちに77畳の大広間があるのですけれど、「これ、今月使ったかな?」というようなことが続きました。

 

 それで大正時代は料亭で婚礼をしていたのだからということで、婚礼を始めたり、近くに歌舞伎座とか演舞場があるので、芝居茶屋というのでしょうか、観劇とお昼のセットを始めたりしました。

 

 また他所から人間国宝塾という企画も持ち込まれたりしました。

 

料亭は日本文化を凝縮した場所

 

 ――人間国宝というのはどういうジャンルの方が?

 

 歌舞伎界、舞踊界、工芸の世界などを代表する人間国宝の方々です。身近で実演して頂き、お話を伺えたりと贅沢な企画です。

 

 ――今、芸者さんは何人くらいいるのですか。

 

 私が来た頃、32年くらい前は150人ほどいたんですけれど、今は40人ちょっとになってしまいました。

 

 ――料亭がほかのところと違うのは、踊りがあったりお唄があったり、日本の伝統芸能が楽しめるところですよね。

 

 料亭は日本の文化、日本的なものを凝縮した場所だと思います。玄関に入るとお香の香りがして、お座敷に入ると床の間にお軸が掛かっていて、お花が活けてある。

 

 お迎えする私たちも、今はほとんど皆さんが着ていらっしゃらない着物ですし、畳も珍しいものになってしまいました。そうした設えや装いに加えて、芸者衆の踊りや三味線などが総合してつくり上げている本当に日本らしいところだと思います。

 

 そういうものをぜひ皆さんにも味わっていただきたいですし、今はちょっと無理ですけれど、日本らしさを求めていらっしゃる外国の方々にも、数少なくなってしまったこういう場所と空気を体験していただきたいです。

 

 ――海外のお客さんは、コロナの前にはいらしてましたか。

 

 観光客ではなく海外の要人の方や会社のご接待で呼ばれていらしていたくらいです。

 

 ――普通に誰しもが予約できない、なんとなく料亭は敷居が高いというイメージですが、おいしいお料理を楽しめて、伝統芸能もあって、芸妓さんたちも酒席を愉しく盛り上げてくださる。

 

 料亭は日本人の心の中にある仕事の区切りや折々で何かを一緒にやろうという時に使われる場です。お酒を酌み交わし食を共にすることで腹を割ることができる。芸者衆はその場を和ませる役割です。

 

 そんな中で、気取っているだけではいけないのですけれど、せっかく父や母たちが築いてきた場所なので、本物の日本を残していくように、私も勉強して務めていきたいと思っています。

 

今は料理重視の時代に

 

 ――こちらのお料理はとても大きな要素ですね。出自が関西割烹ということなのでしょうが、本当においしいと思います。

 

 それは一番うれしいことです。うちは喰い切り料理が基本です。祖父が割烹の出なので、よい素材を活かした料理をそのままお座敷にお出しするという考えです。

 

 ただ、厨房とお座敷の距離がちょっと遠い分、最近はお座敷で鍋をしてお取り分けして熱々のものをお出ししたりしています。

 

 かつて大宴会が多かった時代は、お客さまはあまりお料理を召し上がらなかったようです。どちらかというとお仕事重視なので、時間内に切り上げるとか、いいタイミングでお出しすることが大事で、「お椀をお出ししたのに、すぐに召し上がっていただけない」と思ったことが何度もあります。

 

 今は、皆さん、お料理をすごく重要視してくださっています。おいしいのは当たり前、おいしくないと次は来ていただけないと思っていますので、もっともっとお料理をおいしく工夫していかなければと考えています。

 

女性客の方が芸者に興味

 ――ダイバーシティの世の中、令和の時代は女性のお客さんも増えるでしょうか。

 

 こうした料亭では、昭和は本当に男の社会だったと思います。女性のお客さまは少なかったのですけれど、平成になって女性のお客さまも増えてきました。

 

 もちろんご夫婦で料亭を楽しむお席も増えてきましたが、今は女性経営者が結構いらっしゃるじゃないですか。そういう方たちは、きちんと男前にお金を使われます。むしろ女性のほうが芸者さんに興味をお持ちです。踊りにも、着物にも女性の方ほうが興味を持って、芸者さんと楽しくお話をされています。

 

 ――お昼もリクエストがあれば対応されるのですか。

 

 はい、もちろんです。ご接待で普通に使われています。また、奥様同士の会やお茶会、邦楽の会などでもご利用いただいています。

 

前回五輪ではオリンピック遊びも

 

 ――今年は残念ながらオリンピック、パラリンピックが延期になりましたけど、1964年の東京オリンピックの頃は高度成長真っただ中で盛り上がったでしょうね。

 

 母から聞いた話なのですが、前回のオリンピックのときは、みんなでオリンピックごっこをして遊んでいらしたみたいです。

 

 座布団を胸につけて水泳大会したり、脇息(きょうそく)を飛び越える競争したり。大の大人がそういう遊びをしたようです。

 

 ――大の大人が座布団で滑るようにしてクロールか平泳ぎですか。それは来年やりたいですね、お座敷オリンピック(笑)。

 

 あと、私が来た頃に、今度1万円札になる澁澤栄一さんのお孫さんの澁澤敬三さん(元日銀総裁・元大蔵大臣)の薫陶を受けたお役人さんたちや経済人たちが集まって「澁澤会」というのを年に1回されていました。澁澤敬三さんの写真と、お好きだったピース缶とピータンを床の間に置いて。

 

 みなさんいらっしゃると手を合わせて、そしてお席に着かれて。初めてだった私は、どんな勉強会をされるのかと思っていたら、一芸を披露する会だったんですよ。

 

 ハーモニカを吹く方もいますし、支度をして踊りを踊る方ですとか、みなさんそれぞれが芸の発表をする会というのには、びっくりしました。

 

 大蔵省や財界のお偉い方は、遊ぶときは遊ぶということなんですね。澁澤さんご自身もとても芸達者な方で、踊りをされたり宴席を愉しく盛り上げる方だったそうです。

 

天下国家語った昭和の経営者

 

 ――昭和の経営者は、遊び方も粋だったのですね。

 

 母から聞いたことですが、遊びも粋でしたが、みなさん天下国家を語っていらっしゃったと。自分のお仕事だけではなくて、国を良くしたいという、そういう方が多かったと聞いています。

 

 ――政治家や官僚、財界人たちが、こうしたところで、生臭い話も含めて、談論風発していた時代でしたね。

 

 私がお嫁に来る前だったのですけれど、総裁選があったときに、有力候補の一人からいきなり母のところに「今から行くから。ご飯はいらないよ」という電話がかかってきて部屋を用意していると、別の有力候補の方も現れたそうです。そして母に「これからジャンケンで総理を決めるから」と仰ったそうです。

 

 冗談でしょうけど、本当にジャンケンで決めていたらおかしいですよね。30分くらいでお帰りになったらしいのですけれど、やはりそういう場所としても結構使われていたようです。

 

 ――政局の舞台としてテレビの映像でもたびたび「金田中」の看板が出ていました。

 

 料亭文化の象徴として持ち上げられることもあったんですけれど、料亭政治じゃないですけれど、なにか悪い密室のイメージとして、うちの門構えと看板を使われることもありました。料亭っぽいんでしょうね、料亭なんですけれども(笑)。

 

令和時代も“本物”極めたい

 

 ――昭和、平成と料亭の在り方、使われ方もずいぶん変わりましたけど、令和はどうなるのでしょうか。

 

 読めないですね。でも、逆にここで変えるべきは変える時かもしれません。本筋は変えたくありませんが、お客さまが来てくださらないと、芸者衆とかも存続できなくなってしまいますし、一度なくなってしまうと、もう二度とつくれないと思いますから。

 

 料亭の数は新橋に限らず激減していますけど、嘆いていても仕方がないので、本物というか、日本らしさというものがここにはある、というところを究めていくことが生き残れることかなと。

 

 ここで安易な方向に変えてしまうと、もう本当になくなってしまうと思うので、本物として残っていけるような店にしていきたいと思っています。

 

 ――ここの待合バーも変わりましたね。外側からのアプローチを作られたので、お座敷とは関係なく、ちょっと寄ることもできますね。

 

 そうなんです。ここだけで、おつまみやカレーライスもお出ししています。

 

 ――まずは、気軽に覗いてもらいたいですね。心から応援しています。いや、心の中だけでなく、応援したいと思っています。