1996年、大阪市で設立した澪標の松村信人社長は、学生時代から文芸同人誌の活動に打ち込んでいた。79年、出身地の神戸に「文芸同人誌センター」を設立し、メディアでも報道され、大きな反響を呼んだ。勢いそのままに出版社を立ち上げるが、一冊のみの刊行で幕を閉じる。その後、印刷会社経営など紆余曲折を経て、再度、出版社設立に挑戦。今では詩集などの文芸書や大学テキスト、自費出版も手掛け、安定経営を見せている。
【堀雅視】
注目浴びた「同人誌センター」
無類の本好き。読むこと以上に執筆にも意欲的で、高校時代から詩の雑誌に自作を投稿するほど。大学時代も小説をしたため、仲間と文芸同人誌の活動にも勤しんだ。在学中からテレビ局で番組宣伝のライターとして従事する。
その後、商社勤務を経て、学習塾に勤務し、一教室を任された。週末、生徒の授業が終わると、空いた教室に同人誌のメンバーが集結し、酒を酌み交わしながら文学について熱く語り合った。
仲間らと「全国の同人誌を世に出していこう」と構想を掲げ、1979年、神戸市に同人誌センターを設立。主催した全国約800冊の同人誌展示販売会は好評を博し、地元の神戸新聞社はじめメディアも注目した。
翌年には出版社(西斗社)を立ち上げる。松村さんは当時について「同人誌の活動が思いのほか世間に受け入れられ、調子に乗って出版社を作ってしまった。本をつくる過程、印刷入稿や販売会社との取引のハードルの高さなど何も知らないことに気付き、今思えばとんでもない冒険だった」と振り返る。
しかし、文学仲間の紹介で、饗庭孝男氏(2017年没)と出会い、吉本隆明、小川国夫、野口武彦らとの対談集『知と感性の対話』を刊行。西斗社として唯一の作品となった。
転機となった『季刊 びーぐる』
印刷会社経営の父を持つ夫人との結婚を機に、義父の会社に入社。知識習得の好機と捉え、印刷工程などを学び、最終的に社長に就いた。
取引先であった関西発の文学作品を掲載する『関西文学』の発行社が突如倒産し、「代わりにやってほしい」と懇願された。売掛金回収を諦めて発行を受け継ぐことに。60歳を機に印刷会社を退任することになるが、「10年間は責任を持って発行しよう」と心に決め、10年を区切りに休刊し、代わりに詩や短歌を中心とした『季刊 びーぐる』を澪標として刊行した。同誌は関東圏を中心に定期購読者を掴み、徐々に経営を軌道に乗せていく。
松村さんは「インターネットの発達で、地方での商売も遜色なくなってきたが、やはり出版は東京中心だとつくづく感じる」と大阪での事業についてネガティブな印象を持つ。「いくら『関西から全国に発信』と声高に叫んでも、所詮は一地方都市。取次の機能も東京が主で、設立当初は大変だった」と話す。
地方・小出版流通センター経由で流通し、現在は文芸書を中心に大学テキスト、自費出版など順調な出版活動を続け、また優れた詩集を選ぶ小野十三郎賞を後援するなど、展開を広げている。
最大のヒットは17年刊行の『図書の修理とらの巻』、19年の『続 図書の修理とらの巻』。編纂は松村さんも理事として名を連ねるNPO法人書物研究会。同研究会には、東日本大震災で破損した本の修繕についての問い合わせも多い。2冊とも初刷り2000部でスタートしたが、前作は5刷、続編も版を重ねて2冊で1万部を優に超えている。
製本の仕組みから実際に本をばらして修繕していく手順を、イラストで紹介。図書館関係者はじめ、一般の需要も高く、図書館流通センターから想定を上回る取り扱い部数の申し出があったという。
重厚な谷川作品構想
今後の企画について、「谷川俊太郎先生の米寿を記念して、重厚な作品を考えている」という。さらに「ひとりで営んでいるが、文芸系の仲間たちとチームとして何か創り上げたい。例えば、昨今、問題ある教師が多いが、文学作品における教師像をあぶり出し、昔はこんな素晴らしい教師がいたというようなことを表現したい」とイメージを描く。
出版界については「紙は確実に減少するが、上製本や豪華本など紙ならではの需要はまだある。そろそろ後継者のことも考えないといけないが、一人でやるには『本当にやりたい』、『こんな本をつくりたい』という強い思いがないと難しい」と語る。
本をつくる上でのポイントを聞くと、「組織の大きさは関係ない。最後は出版人、編集者の勘とセンスが決め手になる」と話していた。
澪標=大阪市中央区内平野町2―3―11―202