経営やマーケティングを考えるうえで、ますます重要となってきた「ダイバーシティ」。特に女性の活躍推進は、少子化と高齢化の著しい我が国において喫緊の課題である。その度合いを女性管理職の比率で測ろうというのはいただけないが、女性が消費行動を意思決定する事業分野でも、経営層は依然として男性が大多数を占めているのはバランスが悪い。弊社が発行する『新聞人・出版人』をめくってみても、女性経営者のなんと少ないことか。今回は、女性の視点でさまざまな企業の取り組みを支援するハー・ストーリィ・日野佳恵子社長にお話を伺った。
(聞き手=山口健)
会社を辞めた女性を組織化
――起業のきっかけは。
私は広島の広告会社で地元タウン誌の編集長をしていたのですが、結婚・出産をして退社を余儀なくされました。そのときに、「広告業界の女子も、こんな風にみんな辞めているのかしら」と思い、ライターやデザイナー、イラストレーターなどは女性が多いので、もしかしたら自宅で仕事ができるのではないかとひらめいたのです。
そこで、1990年8月20日に友人と2人で創業して、会社を辞めた女性を組織化してみました。ライターやクリエーターの集団をつくって、自宅で赤ちゃんをみながら仕事ができるようにしたのが始まりです。
「内職集団グループ」と称されて
――当時はまだ珍しかったのではないですか。
珍しかったです。よく新聞やテレビの取材を受けました。「在宅ワークママ」とか、「内職集団グループ」と書かれました。
結婚式場の招待状の表書きとか、印刷会社からラベルを大量にもらってきて、自宅で子育てしながらシールを貼るとか。在宅ワークママと企業をつなぐマッチングみたいな仕事です。
――内職のような単価では、会社としてビジネスにならなかったのではないですか。
なりませんから、そこに付加価値をつけたのです。例えば、結婚式の封筒を、「ちょっとかわいいデザインにしませんか」と印刷会社に提案して、1件いくらの手数料ではなくて、デザインのアイデアを入れた「企画・プロデュース」込みの設定にしました。
グループにはお花の先生もいます。そういう方に相談すると、生徒さんを連れて、会場をお花で飾ってくれたりします。さらに照明や音響の人を頼んだり、出産を機に辞めた元アナウンサーに司会をお願いしたりと、今で言うブライダルコーディネートですね。そうすると、また次の受託につながって、結構大口のお客様になっていったのです。
人の数がチカラになる
――どうやって女性を組織化したのですか。
女性たちは「お花をやっていた私を認めてくれた」とか、「書道を教えていたら、車のディーラーの賞状を書かせてもらえた」など、趣味が評価されることで社会的な意義を見いだし、自立できることを喜んで、登録が増えていきました。
――お金の問題ではなかったのですね。
そうです。お金ではなかったんです。自分のやってきたことが社会の役に立つということがモチベーションになって、どんどん他の人を紹介してくるようになりました。
創業の年に300人くらいだった人材バンクが、1年後には1万人になったのです。そこにまた新聞社、テレビ局が取材に来ました。90年から93年にはNHK広島放送局のドキュメンタリーに出ました。すると翌日から電話が鳴りやまず、すぐに5万人になりました。広島県で5万人の女性組織になったら、どこも無視できません。次々といろいろな人が、なかには怪しい人もいっぱいやってきましたが(笑)。
そうなりまして、地元の食品メーカーなどが連絡をくださって、ソースの味利きをとか、ポテトチップスを食べて評価してほしいとか、いろいろな仕事が来るようになったのです。その時、人の数がこんなにも力になるのかと思いました。
また、当時はフリーペーパーを作って5万人の連絡網にしていたのですが、その封筒代と切手代は膨大でした。それを「共感した。私にはできないことをやっているから助けたい」と会員の女性が寄附してくるようになりました。
今でもコロナ禍や災害のときに人を助けたいという感情が動くことがありますが、人は共感すれば寄附もし、応援もするという現象がみるみる巨大化していく姿を、31年前に見たのです。
トヨタ自動車との出会いが転機に
――どういう経緯で東京に移ったのですか。
当時、ご主人の仕事の関係で北海道や福岡に行った会員が、ハー・ストーリィの支店を出したいと言ってきました。そこで看板とノウハウだけ共有して、「ハー・ストーリィ」の「支部」として各地に広げることにしました。みなさんそれぞれ経営者として自立されたのです。
その姿を2002年に『クチコミュニティ・マーケティング』という書籍にして朝日新聞社から出しました。7万部ほど売れたので、ビジネス書としてはベストセラーとなりました。
すると、全国各地の講演会に呼ばれるようになりました。あるとき名古屋の講演会で、トヨタ自動車の方と出会いました。94年のことです。
当時出ていたコンパクトカーは、ほとんどが女性ユーザーで、特に保育園と幼稚園のお迎えに使われていたのですが、販売店は、男性が行きやすい店で、女性が立ち寄りにくく、とくに小さな子どもを持つママには子どもの間がもたず、商談がしにくいなどの課題があると聞きました。
そこで、私たちの意見がほしいと言われて、全国のディーラーを北海道から九州まで多数回りました。その結果、ディーラーには子供の遊び場や授乳室が設けられ、営業マンの服装から商品説明の伝え方までマニュアル化されていきました。
こうした感じでリーマンショックの前までは順調で、東京に支社を出して移動してきたのです。ところが、そこでリーマンショックにぶつかります。そのとき社員は70人になり、売り上げも順調で、外部資本も入れて、上場も視野に入れた準備に入りました。
ところがリーマンショックの半年後に、売り上げの6、7割を依存していた大手企業さんの7割のお仕事が止まりました。月に5000~6000万円以上の売り上げが突然半分になり、さらに500万円くらいまで落ち込んだのです。
そうなるといきなり3000~4000万円の赤字です。食べていくには社員を20人くらいにしなきゃもたないという状況になりました。
リーマンショックの前までは、「すごいな、私」と思っていました。本も次々出していましたし、成功者だと。しかし、どこに融資を頼みに行っても駄目。保証も駄目。今のコロナと同じで、収束が見えないからどうしようもない。
どんどんキャッシュが減っていくなかで、社員を集めて、「申し訳ありません。縮小したい」と言いました。それまで夢も語っていたし、ビジョン経営型でしたから、ものすごく罵倒されましたし、ご主人に怒鳴り込まれもし、ネット上には誹謗中傷じみたことまで書かれ、メチャクチャでした。それが07年~08年です。
リーマンショック「成功者」から一転経営難に
そのときに、どうにか銀行から資金調達して本体は生き残りましたが、社員を20人に減らし、本社を東京に移し、東京でやり直すことになったのです。
そして、ようやくやり直せると思って、11年に現在の事務所に移ります。メンバーはそのとき15人。そしたら2月に引っ越して、3月11日に東日本大震災です。08年から11年の3年間は、どうやって生きたか記憶がありません。
震災後、光を灯し人々が集う場に
――いまレストランになっているこのフロアが事務所だったのですか。
ここは事務所のOAフロアでした。震災直後の麻布十番は地下鉄も全部停まって夜は真っ暗、電気もない。「もう駄目だ」と思いましたね、あのときは。ところが何を思ったのか、「みんなに元気を!」と、少しあったキャッシュをはたいてここをレストランに変えました。
窓が広くて景色がいいここに小さな光を灯したいと思い、温かな色の昔のアメリカの映画用照明…、30万円もしたんですけれど、思い切って買ってきました。
みんなでご飯が食べられるという雰囲気を作っているうちに、少しずつ人々が集うようになり、私も癒されていきました。シェフと相談してここをビオワイン専門にしました。実はここから全ての流れが変わっていくのです。
マーケティング会社への転身
07年から11年の苦しかったときに『「ワタシが主役」が消費を動かす』という本をダイヤモンド社から出しました。今は皆さんが「SDGs」と言いますけれど、その頃から女性消費者は、環境に対する疑問を持ち、オーガニックとかゴミの問題を水面下で感じていたのです。
当時は新しすぎましたが、女性消費者に向き合っていると、ペットボトルはラベルが剥がれやすいものを買うとか、子供の口に入れるものはこうあるべきといった、子育てをする目線での発言は、未来の社会を預言していると思いました。
私のもとには子育てして暮らしている47万人の女性がいる。生まれた子どもが10歳になるのは10年後だし、5歳の子どもは10年すると15歳になるというふうに、彼女たちは未来を見ています。このお母さんたちを追いかけたら、社会の変化が分かると思って、女性マーケットを読んで社会に伝えるマーケティング会社に変わっていきます。これがハー・ストーリィの現在です。
情報を企業ごとにカスタマイズ
――未来予測をどのような形で企業に提供しているのですか。
10年先、20年先の社会を追っている企業はたくさんあります。沿線開発やまちづくりとか、不動産業界も、シンクタンクをおつくりになったりしますよね。
弊社は、そうしたシンクタンクに似ていて、女性たちが今日何を買って、何を食べたかを調べて、それを定量的にまとめて「HERSTORY REVIEW(ハー・ストーリィ・レビュー)」という冊子やレポートにして提供するビジネスをしています。
さらに、これを企業のご要望でカスタマイズして納品するお仕事を受託しています。例えば、子ども用品のメーカーなら、今10歳の子のお母さんにどういう気持ちで子ども用品を買うのかとか、全て調べます。
たとえば最近ですと、自粛していたけれど7月あたりからだんだん目が外に向いて、親御さんにギフトを贈る動きが盛んになっているということが見えてきています。
――どのぐらいの読者がいますか。
購読料は法人で年間5万円で、200社ほどにご契約いただいています。10人未満の会社もあれば万人単位の会社もありますが、イントラで上げることもできますから、社員で共有したり、教育・研修に使っている会社もあります。
――1万人いても10人でも同じ購読料ですか。
そうです。アカウントによる課金などは一切していません。当社は人数が少ないのでそこに営業パワーをかけるよりは、広がってくれたほうが、問い合わせが来て、講演依頼や相談も多くなるからです。
紙媒体からPDFに移行
――コロナ禍の影響はありますか。
実は、紙の雑誌を発行したのは今年4月号が最後でした。コロナによって3月で取材が全然できなくなり、雑誌発行をいったん止めました。その後、会員にメールを送って答えてもらう調査だけをして、7月号からはPDFで発行を再開しました。冊子は50部しか刷っていません。
それまでも冊子とPDFがあり、冊子のみの購読は100社ぐらいでしたが、お客さまには全てPDF版に替えさせていただきますと連絡しました。
社員も「大丈夫かな」と言っていましたが、紙での契約が残っているのはあと5社です。12月号からはA4判タテだった体裁もパソコンの画面に合わせて横型に変えます。パワーポイントのように見えますから、社内研修などでそのまま使えます。
顧客とは長く伴走してサポート
――購読企業とは雑誌だけではない取引をしているわけですか。
ある食品メーカーのファンクラブの企画から運用まで受託しているケースでは、サイトのメンバーから試食の意見を集めて、そのデータをマーケティングツールとして戻したりしています。
基本的にはそのメーカーの社員さんにご指導して、弊社がサポートする感じで、ずっと伴走しています。ですので、長いお付き合いになります。新商品もここから生まれますし、発売が決まって会員に知らせると、喜んで店頭に買いに行ってくれるので販売にも繋がります。
また、私の出身地、島根県のサイトを当社で作って長く運営していました。「リメンバーしまね」と言いまして、行政の企画としては成功したモデルです。10年前に私たちが手伝って開設し、5年くらい伴走し、その後は県が運営しています。
挫折から学んだ「持たざる」経営
――47万人の組織をリーマンショックや震災の時期にどうやって維持できたのですか。
実は、費用やサーバー管理が大変だし、個人情報の問題もあったので、うちが使えるように権利を残して、管理は他の会社に売却しました。
ここまで積み上げたイメージと彼女たちの気持ちがあるので、ハー・ストーリィ・コミュニティとして残してもらって、使うときは通常よりかなり安く利用できる契約です。
いまは「持たず」「持たない」経営です。仕事はプロジェクトにして、必要なときにみんなの知恵を集めて、終われば解散します。
社員はプロデュースのみで、仕事はほとんど外注です。デザイナーも外ですし、調査も結構時間がかかりますけれど全て47万人の中の女性たちがやっています。
――「持たざる経営」、同感です。どの業種でも、というわけではないでしょうが、コロナ禍がもたらした変革の一側面を映す言葉であると思います。今日はありがとうございました。
日野佳恵子さん略歴
10歳、20歳のときに大病と大手術を経験。子どもができないと言われるが、25歳で結婚、27歳で出産。自分の体験した精神的、肉体的な経験から、幸せな生き方、社会づくりに関心を持つ。「子どもは、人類の宝と責任」を信念とする。HERSTORYを創業後、男女購買行動の産学共同研究等を経て、「女性視点マーケティングⓇ」を確立、現在に至る。