コロナ禍なかりせば……
筆者は、これまで居住地を、山形県、千葉県、東京都、埼玉県の中で20回は移動している。海外には30カ国程度、足を踏み入れ街を歩いた。この間、ロンドンやバーミンガムなどイギリスにも1年以上暮らした。こうした体験で感じたのは、どの街や都市にも暮らしがあり、それぞれに趣きがあり、住んでみたいと思ったことだ。
筆者の父母は、樺太や満州にも移民として出かけたそうで、移動癖や旅行癖のDNAが、遺伝しているのかもしれない。DNAには、個体に固定された要素と、人生により影響を受け変化する要素の2つの階層があるという。DNAを息子たちはどのように継承し、現れるかが興味深い。
さて、コロナの時代、これまで自由に発現していた移動癖と旅行癖は、国内に、しかも出来るだけ近距離に限定されている。いま、海外に出かけたときのことを懐かしく思う。
実は、昨年の12月、中国の山東省の威海市に出かけた。その目的は日本の科学技術を同市に技術移転するための招待旅行であった。しかし、現実は、未来志向の高度科学技術・産業都市開発を旗印に掲げ、急速に発展している威海市の現状を見せつけられた。
同市は温暖な気候の観光都市でもあった。すっかり居住したい気持ちに駆られた。実際、技術交流のビジネス案件が決まり、コロナ禍が無ければ、交流が始まっていたはずである。現在はWeChatでやり取りするだけであり、本格的な連携を早くスタートしたいと思っている。中国のほか、いつも心に繋がっているのはイギリスである。筆者が20年以上、研究者としての立場を越えて追い求めているのがイギリスのエンジニア、イザムバード・キングダム・ブルネル(1806~1859)である。
ブルネルの挑戦心に心惹かれて、ブルネル大学に滞在し、ウインザー近くのテムズ河畔ラニミードにある大学宿舎に住み、イギリス中を訪ね回った。この田園生活は帰国後、千葉市から外房の岬町に転居する動機になった。
行く先々で感じた地元力
昨年はブルネル父子の記念の年(父の生誕250年、子の没後160年)であり、9月初めから10月末まで2カ月間、東京の築地でブルネルの事績展を開催した。
ブルネルは、シールドトンネル工法、超広軌蒸気鉄道、蒸気船などの開発者で、父子の銅像はイギリスに8点はあり、そのすべてを訪ねた。銅像のほか父子の橋、トンネル、駅舎などは現在でも商用され、博物館などとして、各地の観光先として地元力になっている。
4年前の訪問先も懐かしい。2016年12月末に南米のエクアドルに、夫婦で出かけた。首都のキトは赤道直下にあっても高度3000㍍であり、年中温暖である。私たち日本人には、エクアドル産のバナナで身近に感じる国であるが、バナナの木にホバリングするハチドリの姿は愛らしい観光の目玉である。キトでは春分と秋分の日には、太陽が南に傾くことなく東から西へ頭上を移動する。首都は、スペイン風の旧都で世界遺産の街であった。
エクアドルからの帰路の経由地をアメリカのワシントンとして、50年来の念願の訪問地、ゲティスバーグにドライブした。高校の英語の授業では、リンカーンの有名な演説を暗唱するのが課題であった。今でも、そのくだりの一部は暗唱できるが、南北戦争の激戦地の訪問が実現した。
ちょうど、大晦日にホテルに宿泊し翌日、2017年の元旦を迎えた。ホテルから近い教会で、新年のミサがあり参列した。その後、1863年、いまから157年前の演説の地や南北戦争の戦場を訪ねた。
さらに、ワシントンまでドライブし、リンカーン記念堂に出かけた。新年の夜景に輝く記念堂には、各国から観光客が来ており、トランプ政権の行く末を案じた。記念堂には、「人民の、人民による、人民のための政治」の全文を刻した大きな石碑があり、音読した。
コロナ禍の終息で、地域力を確かめる観光・交流の再開が待ち遠しい。
佐藤建吉 一般社団法人「洸楓座」代表
【略歴】1950年山形生まれ。東京都立大院卒。元千葉大大学院工学研究科准教授(金属疲労専攻)。金属疲労の研究のほか、他分野のテーマの研究開発に努めるとともに日本各地の地域おこし活動に従事する。ローカル鉄道と地元の酒蔵のコラボで地域再生を図る地酒「鐵の道」の製造・販売を企画、すでに10件を超える銘柄を送り出している。一般社団法人「洸楓座」代表。「全国ふるさと大使連絡会議」理事