【東翻西躁】中国最高実力者が旅に出ると―鄧小平の敦煌訪問(高橋茂男)

2021年12月9日

一族郎党が特別専用列車で

 

 中国とは共産党の高級幹部がすべてを決め、すべてを支配している国だが、実態はほとんど知られていない。一握りの最高指導部、たとえば現在のトップ、習近平はどのようにして共産党総書記に選ばれたのか?

 

 当事者以外は誰も知らないと言ってよいだろう。中国では肝腎のことはすべて秘密になっている。これから2回にわたって紹介するのは、かつて中国の最高実力者として一時代を画した鄧小平が、家族を連れて敦煌に遊んだ時のドキュメントである。知られることのなかった最高実力者の旅行記が中国の実態に迫るヒントになれば幸いである。

 

 鄧小平が初めて敦煌を訪れたのは1981年8月8日、立秋の翌日だった。

 

 8月6日、なんの説明もないまま、突然人民解放軍の兵士多数が莫高窟(千仏洞)周辺に姿を現わし掃除を始めた。敦煌の町と仏教芸術の壁画で世界に知られる莫高窟を結ぶ道路は、人民解放軍の人海戦術で傷んだ部分はあっという間に補修され、信じられないほど綺麗な舗装路に生れ変わった。7日になると、莫高窟に行く唯一の交通手段であるバスはすべてストップした。ただ、外国人観光客用のバスだけは動いていた。一体何のためなのか?

 

 敦煌の住民も観光客も一切知らされなかった。

 

 一族郎党を引き連れた鄧小平の甘粛・新疆シルクロードの旅は13両からなる特別の専用列車で行われた。専用列車には護衛、通信、医療などの要員から秘書、運転手、コック、カメラマン、身の回りの世話をする服務員に至るまで多数のスタッフが乗り込んでいる。鄧小平は6両目の車輛に乗っていたが、コンパートメントは1人用と2人用があって、ベッド、ソファー、バス、電話、医療機器等が完備している。しかも,車輛はよほどの重火器による攻撃でも受けない限り耐えられるよう特別仕様で造られていた。

 

敦煌唯一のホテルを貸し切り

 

 専用列車は8日、蘭新線の柳園駅に到着。沿線では謎の専用列車を通過させるため、多数の列車が乗客に理由を告げることもなく長時間待機させられたことは言うまでもない。鄧小平の一行は柳園駅で車に乗り換えて130キロ離れた敦煌に向かった。当時敦煌にはホテルが一つしかなく、鄧小平と一族郎党は唯一のホテルである敦煌賓館を借り切る形となった。敦煌賓館に泊まっていた客は、理由の説明もないまま、突然強制的に県の招待所や県食糧局の接待所などに移された。ホテルの従業員は3日前に幹部から「中央の指導者が来る」とだけ教えられたが、それが誰かは分からず、胡耀邦(当時、共産党主席)、趙紫陽(当時、首相)、鄧小平(当時、中央軍事委員会主席兼党副主席)のいずれかだと思っていたという。

 

 共産党がすべてを支配する中国だから、党のトップである党主席(現在は党総書記)が一番偉い筈だが、鄧小平の時代は違っていた。鄧小平は軍のトップである軍事委員会主席は手放さなかったものの、党主席は子飼いの胡耀邦に譲り、自分は党副主席に甘んじていた。しかし、誰が見ても鄧小平が中国の№1であり、独裁者であった。

 

 8日、この日も敦煌は30度を超す暑さだった。午後3時を回ったころ、鄧小平が莫高窟にやって来た。トヨタコースターなど7台のマイクロバスに分乗した一行は50数人、先頭より2台目の車から鄧小平が降りてきた。白の開襟シャツに緑色のズボン、真っ黒に日焼けした顔。卓琳夫人、息子、娘たちの姿も見える。小学生から高校生くらいまでの子供が10人以上いる。お供は中央政治局委員の王震と中央書記処書記兼中央宣伝部長の王任重。接待役を務める地元甘粛省トップの憑紀新書記代行と軍トップの䔥華蘭州軍区政治委員が緊張した面持ちで控えている。䔥華は軍服姿である。

 

 莫高窟は敦煌の町から25キロ離れた小さなオアシスの中にある。オアシスの東は三危山、西は鳴沙山と呼ばれる山で、今に残る492の石窟群は鳴沙山の崖っぷちに横穴を掘って造られた。風が吹くと沙が動き、沙丘の〝鳴き声″が耳に響く。その鳴沙山を見上げると、山の上に20人ほどの屈強な男たちが、立ったまましきりに周囲を窺っている。上から石などを落とされないように、私服の警備員たちが見張っているのだ。          

 

(以下次号)

 

高橋茂男(元日本テレビ北京支局長)

 


 

 1942年生まれ。東京外国語大学中国科卒業。日本テレビ放送網入社。北京支局、香港支局に併せて12年駐在。35か国、地域を取材。文化女子大学(今の文化学園大学)教授を務めた(メディア論、現代中国論)

 

*コラムタイトルの「東翻西躁」とは、世界中が慌ただしく揺れ動いている様を形容した造語です