文化通信社が昨年開催した「こどものための100冊」キャンペーンは、国語力の低下が叫ばれて久しい子どもたちが、書店や図書館、保育園を通して良い本に触れる機会を創出するものとして好評を得た。今年も4月29日から開催するべく準備を進めている。今回、長年言葉と向き合い、子ども向けの作品や翻訳にも精力的に活動を続けられている詩人の谷川俊太郎さんを訪ね、子どもたちに対して大人がどう本と向き合うか、お話を伺った。御年90歳。和田秀樹さん的に申せば、クリエイティビティあふれる素敵な「スーパースーパーオールド」だった。
【聞き手・山口健】
友だちの影響で詩を書くように
――これまで70年以上の長きにわたり素敵な言葉を紡ぎ続けられていらっしゃいますが、詩を書きはじめられたきっかけ、あるいは環境的に影響を受けられたものがあったのでしょうか。
まず、自分が経済的に自立することが、一番大きな動機だったんです。僕は高校は定時制に通っていて、大学には行かなくて。とにかく勉強嫌いで家で本を読んだりなんかしていたわけです。
そのうち、友だちの影響で詩を書き始めて。父が文学関係の批評もしていたものですから、知り合いだった三好達治さんに私の詩を見せたら、三好さんがそれを『文學界』という雑誌に紹介してくれたというのが、すべての始まりなんです。
だから、詩を書くのにすごく努力したとか、すごく勉強したとかという意識がなくて、わりと成り行きで書けるようになっちゃったみたいな感じなんです。
まあ、ほかに全然、職を持っていなかったですから。いわゆる手に職がなかったので、とにかく書くより仕方がなくて。詩だけじゃ到底食べていけないので、自分ができることはなんでも受けていたんですよ。そうしたことがだんだん広がって、たまっていったという
ことですね。
自然に生まれるものを大事にしたい
――お書きになるうえで、はじめに書こうとするテーマを設定されるのでしょうか。
僕は詩だけじゃなくて、エッセイも書きますから。エッセイなんかの場合にはテーマがあるんですけれど、詩の場合にはテーマで始まらないんですよ。
つまり、なにもないところから言葉が湧いてくるというか、生まれてくると言うのがいいのか、それが詩の始まりでしてね。たまにテーマを与えられて、もちろん注文されて詩を書くこともあるんですけれども。
テーマというのは、書いているうちに自然に出てくるというか。書き終わって、あ、これはなにかテーマがあったなと思うような、そんな感じで。そこがまったく散文と違いますね。
長い文章を書くのは苦手
――デスクに向かってひねり出すのではなく、自然に出てくるものを大事にされているということですね。
そうですね。でも実際に書く場合には、やっぱりコンピューターの前に座らざるを得ないから、「さあ、これから書くぞ!」と言って、座っています。ただ、最初の1行、2行は、寝ているときや、朝起きたときにひらめいて出てきたりとかで。それをメモして、そこから一編の詩が始まることもあります。できるだけ自然に生まれるものは大事にしたいとは思うのですけれどね。
――ワープロと手書きについてもお書きになっておられました。
今はもう全部、Macですね。僕は字が下手なんですよ、ぶきっちょで。母親にいつも怒られていました。
詩を選んだのは、要するに短かったということもあるんですね。長い文章を書くのは苦手で。だからワープロができたときはすごくうれしかったですよ。少し長めのものが書けるようになりましたので。それに、ワープロできれいに出てきた字のほうが、ありがたいんですよ。自分の字は嫌だからね。見ていると嫌になるんですよ(笑)
本に持つ「愛情」と「嫌悪」
――日常的にたくさんの本をお読みになっていらっしゃったのでしょうね。
うちはなにせ父親が大学の先生だったから、家じゅう本だらけだったわけです。だから僕は本なんか貴重なものだって、全然思っていなかったんです。今でも思っていませんけどね。なんか、本に対しては愛情と嫌悪との二つあります。
あんまり本が多すぎて。うちの父が亡くなったときに、故郷の図書館に蔵書を寄付したんだけれど、10トントラックが来たんですよ。そういうものに囲まれていると、本がありがたいものじゃなくて、ちょっと迷惑なものみたいになっていましたね。
それと、もう一つは、僕は詩を書き始めた頃から、言葉というものをあんまり信用できなかったんです。言葉に対して疑問と言えばいいのか、よくわからないけれども、自然にしろ、人間関係にしろ、実際に自分が全感覚で、ときには命がけで関係しているものに対して、言葉っていうのはすごく上っ面しか言っていないという気持ちがすごく強くて。
もちろん、だからこそ、みんな優れた文章とか優れた詩を一生懸命書くわけですけれど、なにか言葉に対する不信感がずっと、今でもあるというのが、ほかの詩人とちょっと違うところかもしれないと自分では思っています。
だから、言葉以外の、例えば詩を書き始めた頃にも、いい詩を書きたいとか、いい詩人になりたいというよりも、自分がちゃんと生活をするということのほうが、詩よりも大事だったんです。
ですから、ちゃんと結婚して、自分の家をどうにかして、子どもを育てていくというのが、僕の人生の基本でね。詩はそっちのほうにくっついていたという感じが今でもしています。
本を通して親子の感情の交流を
――谷川さんは絵本作家でもいらっしゃいます。
僕は、肩書は詩人一本にしてほしいのですけど…。翻訳家とか、いろいろ言われますが。まあ、絵本の場合は、ちょっと本業だと思ってもいいんだけれど、絵は描いていませんからね。テキストだけですから。だからやっぱり、詩人で通していただければありがたいです。
小さいうちに言葉というものを習得するためのことを考えなきゃいけないと思う。本は活字だけだけれども、生な人間の感情を伴った言葉というのが、まず子どもにとっては大事だと思うんです。たとえば、周囲の大人たちの声とか言葉とか抑揚とか。
僕は母親っ子だったから、なにも教わるわけでなく、自然に母親と接触しているうちに、つまり母親の持っている愛情というものを感じ取って、自分が安定したということは明らかだと思うんです。
本読む姿を子どもに見せているか
――今は核家族化でおばあちゃんがいない、お母さんは働くようになり、帰宅後も家事で忙しい。すると、テレビやネットの動画を見せて、まとわりつく子どもたちの気を紛らわせている。「こどものための100冊」を始めたきっかけも、文字にふれる機会を喪っている、こうした子どもの置かれている環境にあります。
本について言えば、親が読んでいるところが子どもにどこまで見えているか。というのは、親が本を読んでいなかったら、子どもも本を読まなくなる。
ケルテスという人の写真集で、読む人間の写真ばかりを撮っている写真集がありますが、それを見ると、本を読んでいるときの人間は、やっぱりほかの仕事をしているときと、ちょっと違うんです。だから、子どもが、親が本を読んでいるところを見ていると、自然に自分も本を読むようになるんじゃないかという気がします。
あとは、家庭内の父親、母親じゃなくても、大人の友達が「これ、おもしろいよ」みたいにしてくれると、子どもはわりと、親よりもそっちのほうがいいんじゃないかなという感じもします。
僕の場合、父の知り合いで、野上弥生子という、小説家であり、いろいろなことをやった文化人なんですが、その人が僕に本をくれるわけです。子ども向きの本を。彼女のおかげで、子どもの本を読んだということはありましたね。
絵本は私の大事なジャンル
――子どもに向けた本を書かれるときの気持ち、心構えのようなものはありますか。
散文と詩というのは全然違うと思うのですけれど、僕は詩が主ですから。基本的に簡単に割り切ると、大人も子どもも区別しないという書き方です。だから、もちろん、難しい漢字とか、そういうのは避けますけれども。子どもが読んで面白くなければ、大人が読んでも面白くないし、大人が読んで面白いものは、子どもだって喜ぶだろうというので、わりと一貫して書いてきました。
とくに僕は、あまり児童文学的なもの、物語的なものは苦手で、詩ばっかり書いていたでしょう。同世代の音楽家の友達と二人で、子どもの歌をつくろうというのが一番最初だったんです。歌の作詞みたいなものから、子どもとの通路が拓けたみたいな。
その次に絵本でした。詩集を出してから、絵本の依頼が来るようになって。絵本というジャンルが、僕はすごく面白くて。絵を並べていって、それに短い言葉をつけていくというのは、編集ということなんです、結局。編集するというのがすごく面白くて、絵本は自分にとってはすごく大事なジャンルになりましたね。
選ぶなら親が読んで面白い本
――子どもに、どんな本を選んだらいいか。どういう本を読み聞かせたり、読ませたらいいのでしょうか。
僕はやっぱり、親が読んで面白いものを子どもに勧めるべきだと思うんです。それは内容だけじゃなくて、語り口とか、いろいろなものがありますから。
絵本も文学である、あるいはアートであると思って大人が読んでみてね。これはちょっと面白いと思ったら、子どもに勧めるのがいいんじゃないかな。
「これいい本だって言われてるから読めよ」というのとは、ちょっと違うでしょう。大人自身がすごく喜んで読んだものだったら、気持ちが伝わるんです、子どもにね。
親の中にも幼児性というのはあると思うんですよ。必ず。人間だから。それをすごくクリエイティブな要素だと思って大事にして本を読めば、子どもっぽい本でもすごく面白いところがあるなってなるでしょう。
だから、親が自分の中の子どもというものを自覚することが大事じゃないかな。なにか上から与えるというのだったら、子どもはやっぱり反発します。役に立つ本をどうしても選んじゃうでしょう。バカみたいな、ナンセンスな本でも、面白ければ、本としてすごく意味があると思うんです。だから、そういう本を選ぶほうがいいと思うんです。
少なくとも、ある時期は。学校に入ったら知識とか必要になってくるわけだから、また別のやり方があると思うけれども。ある程度、小さい頃は、やっぱり親と子どもは本を通して感情の交流があったほうがいいと思うんです。知識の交流ではなくて。
子どもは雑読、乱読でもいい
――子どもの頃、たくさんの本に囲まれる環境にあって、ご両親にどんな本を買ってほしいとねだられたのでしょうか。
子どもの頃は、親に言って本を買ってもらった記憶はないですね。さっき言ったように、父と同じ仕事の人が、子どもの本もくれたりするわけです。それで十分間に合っていて。僕はあまり文学、アート関係には子どもの頃から興味がなくて。むしろ、ラジオをつくるとか、自動車が好きとか。そちらのほうに興味があったんです。そういうのは、雑誌なんか買ってもらいましたね。だから、本当に雑読、乱読でいいと思うんです。
まあ、僕は大人になってからも乱読が基本みたいなところがあります。でも、乱読しているうちに、この作家のものはまた出たら読もうとか。あるいはこういうテーマで書いているものは、ほかの作家のものも読んでみたいというふうにはなります。いくらでも。だから、子どものうちは、自然に自分の関心があるものを選んでいくのでいいと思います。
――本日はありがとうございました。知識ではなく、親子で感情の交流を「こどものための100冊」の巻頭メッセージとしても頂戴いたします。ますますお元気に健筆をふるわれることをお祈りいたします。
たにかわ・しゅんたろう 詩人。1931 年東京生まれ。52年第一詩集『二十億光年の孤独』を刊行。62 年「月火水木金土日の歌」で第四回日本レコード大賞作詩賞、75 年『マザー・グースのうた』で日本翻訳文化賞、82 年『日々の地図』で第三十四回読売文学賞、93 年『世間知ラズ』で第一回萩原朔太郎賞など受賞・著書多数。詩作のほか、絵本、エッセイ、翻訳、脚本、作詞など幅広く作品を発表している。