京都人に学ぶコミュニケーション戦略
脳科学者の中野信子氏による『エレガントな毒の吐き方』(日経BP)が、5月2日取次搬入で発売された。同書は1000年近く日本の中心であり、都であった京都の歴史や文化の中で生まれた、相手との関係性を維持しながらも、毒を交えつつ自身の気持ちを伝える「イケズ」なコミュニケーションスキルを紹介する。生まれも育ちも東京で、生粋の江戸っ子である中野氏に、京都人の話し方の魅力について話を聞いた。
生存戦略として最強の話法
―何がきっかけで京都のコミュニケーションに惹かれたのでしょうか。
もともと言語研究が専門で、言語の処理過程などを追っていくと、最終的にはコミュニケーションに行き着きます。「発せられた言語と表現したい意味が違う」ということは多々あって、特に日本語はそれが顕著です。例えば断る際の「いいえ」でも、日本には「大丈夫です」「結構です」などの表現があり、それはどこに由来するのか、という問題意識が常にありました。
その一つの完成系として、京都の人たちが使われている重層的な表現があると。知人のおばあ様で祇園にお住まいの方がいて、その方のお話がとても興味深いものでした。京都という場所は、長らく日本の中心で、自然とさまざまな人が集まる土地柄で、外から来る人に「入ってきなさんな」と言ってしまうと、町を焼かれてしまうリスクもある。だからやんわりと受け入れるんですが、本音では受け入れない。素直に受け入れてしまうと、後から来た別の外部の人間に敵と見なされてしまう可能性もある。
そういう数々のリスクを抱える土壌があって、相手を傷つけることも、怒らせることもなく、自身の意思をそれとなく伝える手段として、京都特有のコミュニケーションが育まれたのだと。その話を聞いたときに「これは生存戦略として最強なのでは」と興味が湧いたのがきっかけです。
私は代々、東京の人間で京都人のような配慮ある言い方ということを学んでこられなかった。京都外の人間から見ると、そのやり取りは「アート」に等しく、その洗練されたコミュニケーションに対しての憧れもありました。とはいえ、実際に京都に住まわれている方などは、本当に苦労されているみたいです。
60%の満足度に抑える
―京都式の話し方のメリットや魅力は何でしょうか。
誰しも嫌な気持ちになることはあって、人の悩み相談のほとんどが人間関係。その多くは「自分の気持ちを伝えられない」というストレスが原因で、それを解決できればほとんどの悩みが解消されます。相手の態度を変えることは難しいので、「自分が困っている」ということを、相手に伝える必要があるけれども、ストレートに伝えてしまうと、関係が悪化してしまう。
また相手に受け入れられる手法として一つは、自虐的に「へりくだる」というものありますが、京都人は「自分自身を下げ切らず、思いを伝える」という、そのさじ加減が見事で、京都人の微妙な塩梅を入門書としてまとめたのが本書です。
また京都式コミュニケーションの最高峰として、笑いがあります。「京都人も関西人」で、笑いもまた重要な要素です。私も講演で意地悪な質問を受けたときに真正面から答えてしまったことがあり、その際、京都で老舗店を経営されている方から、「京都人だったら笑いにするなあ。おしゃれじゃないねん」と指摘されたんです。笑いで落とした方が、双方にとって得なんですよね。それを互恵関係と言って、どちらにもメリットがある。
脳の仕組み上、相手を打ち負かすことは快感が伴いますが、その感情が勝ってしまい、そのメリットが後ろ回しになってしまうことはよくあります。ですから双方とも100%の完全勝利ではなく、互いに60%ぐらいの満足度に抑えておくことが、実は互いにとって一番いい落としどころだと思います。
京都式を支える自尊感情
―京都人以外の方がエレガントに毒を吐けるようになるには、どうすればいいのでしょうか。
なかなか京都人のようには振舞うのは難しいと思います。郷土愛と訳される「パトリア」という言葉があります。京都、特に洛中の方はその「パトリア」が強いため、自尊感情を持つことができているのだと思います。その自尊感情があるからこそ、自分の気持ちを、エレガントに毒を交えつつ、伝えることができている。
しかしほかの地域はなかなかそういう訳にはいきません。ですから土地などではなく、自分自身が誇りと思えるものを寄りどころにすることで、京都人のような自尊感情を持つことができるでしょう。それは誰から見ても否定できない、ゆるぎない数字、例えばカウンセラーの方であれば、「これまでカウンセリングに合計で〇〇〇時間を費やした」などがいいと思います。それは土地や祖先同様、絶対に動かせない事実として、同じ価値があるものです。
―現代において、なぜ京都式の話し方が求められるのでしょうか。
SNSが発達して、一時の感情で書いたものが残ってしまう。そういう時代だからこそ、より忍ばせるような「毒」の吐き方が大切です。特に若い世代は、自分自身の野心を言わないなど、安全な発言をするようになりました。それは批判的に揶揄されることが多いですが、それは若者が悪いのではなくて、そうせざる得ない状況で、必然的にそうなっている。
モデレートされたものの言い方を強いられるということは、若者にとって窮屈に感じられるかもしれませんが、大きなメリットもあるということはわかってほしい。時代に押し込められているのではなく、英才教育を受けていると。そういう意味で京都人に学ぶ「エレガントな毒の吐き方」は、今後とても重要になってくると思います。